ふと聞こえた、か細い寝言。ルエリシアは荷物を整理していた手をぴたりと止めると、そっとベッドを覗き込んだ。
そこで眠っているジムノは額に脂汗を浮かべ眉間には皺を寄せている。随分苦しそうな様子が痛ましい。冷えたタオルで汗を拭きとってやると、ほんの少しだけ眉間の皺が薄くなった。何かを探すように、ふらりと手が宙を掻く。
昨晩から急に熱を出した彼は何らかの感染症を疑われて急遽医務区の個室へと移動させられたのだが、どうやらただの風邪らしい。そうは言っても四十度近い高熱や頭痛など症状は重く、ある程度回復してから大部屋へと戻る予定だ。症状を緩和する薬も多少は出してもらっているが、少し眠っては随分とうなされてすぐに目を覚ましてしまっている。その度に彼は朦朧とした様子で「うつしたくないから出て行け」と言うのだが、今の彼は怪我も治りきっておらず自由に動ける身ですらないのだから、そうする気になれるはずもない。だからルエリシアは彼の言うことを聞くことはなく、今も服やタオルの替えを用意したり食べられそうなものを探したりとささやかな看病にあたっている。弱まってしまったサイキックは氷嚢を作ったり濡れタオルを凍らせるのにちょうど良い――かつては力が大きすぎて凍傷しないような細やかなコントロールが困難だった――という発見をしつつ。
「……。お姉ちゃん、かあ」
彼の姉であるリユは、政府が「ドラゴンの脅威は去った」と表明した翌日にムラクモを辞した。元々正式な所属ではなく臨時契約であるというようなことを話していたので驚きはしなかった。その後はSKYと協力して渋谷の復興作業を進めているらしい。……復興とはいっても、政府の復興計画では渋谷が後回しになっているのをいいことに好き勝手にしているだけのようなので、褒められたこととは言い難い気もしているが。
ジムノが苦しい中で助けを求めるように呼んだのが自分ではなく姉であったことにちくりと痛みを感じてしまい、ルエリシアは慌ててその嫉妬心を振り払う。振り払いつつも、リユならばもっと的確な看病ができるような気がする、とも考える。
そっと指先で彼の額に触れてみるとまだ熱い。離そうとすると、ふいに手首を掴まれた。
「待っ……! っ、う……ルエリシア?」
ジムノは苦しそうな呻きと悲鳴が入り混じったような声を上げ、それから目を開けて眩しそうにルエリシアを見上げる。目が覚めたのだと理解したらしくゆるりと手を離すので、彼女はその手を握り直した。うわごとのような不安定な声は咳のしすぎで掠れている。
「……うなされてたよ。悪い夢でも見た?」
「いや……。それより、」
「もうっ。そんなにつらそうなのに、一人にしておけるわけないでしょ」
出て行け、と続くであろう彼の言葉を遮ってそう答える。助けを求めたくなるほど苦しい時にそんなことを言わせるのも嫌だった。
「……」
もう一度きゅっと握った手を離すとそっと布団の上に置いてやり、桶の水につけていたタオルを絞って折りたたんでから軽く凍らせる。それを額の上に置いてやると、彼は申し訳なさそうに目を細めた。
「……。それとも……リユさんを連れてきたほうが、いい?」
言いたくないのに言ってしまった。
「……姉さんを?」
彼は少し怪訝な様子で、しかし、そう口にした直後にはっと目を瞠る。
「……もしかして、何か寝言を言っていたか……?」
聞かれてしまったかも、と言わんばかりの表情。ルエリシアは正直に答えるかどうか少し迷ったが、結局「ふふ」と笑って答えた。
「お姉ちゃん、って呼んでたから」
彼は熱のせいで元々赤かった顔を更に赤くして、「忘れてくれ」と呻く。
「でも、確かにわたしよりリユさんの方がちゃんと看病してくれそうだし……」
「ち、違う」
今度はしっかりルエリシアの方へと伸ばされた手を反射的に取る。彼は恥ずかしそうに視線を泳がせつつも、
「そういうことじゃ、なくて……。……昔の夢を……見ていたんだ。小さい頃はよく熱を出して寝込んでいて……いつも姉さんが看病してくれて……それで……」
ややたどたどしい言葉の途中で、彼は不意に激しく咳き込む。横になったままだと余計に苦しそうなので、上半身を起こすのを手伝った。咳は怪我に響くので結構な苦痛が伴うらしく、時折そこに血まで混じるので肝が冷えたが、医者によると咳のしすぎで喉から出血しているだけ、ということらしい。咳止めで随分軽減されてはいるが、それでもまだ辛そうだ。
「……ありがとう」
しばらく続いた咳が収まったのち、彼は掠れた声でぽつりと呟く。憔悴した様子が気の毒で、ルエリシアはベッドの上に膝立ちになると彼の頭をそっと抱き締めた。
伝染るから、と彼はわずかに抵抗を見せるが、もし伝染るとしたらどうせもう手遅れだろう。何も言わずに抱き締め続けているとその抵抗も止まり、体重を少し預けてくれた。ルエリシアはふふっと笑って彼の頭をゆっくり撫でる。
「こんな時に一人でいるのは心細いでしょ?」
そう言ってみると、しばらくの間を置いたのち、胸の中でその頭がもぞりと動いた。どうやら頷いたつもりらしい。そんな様子がなんだか可愛らしくて、だが可愛いと言ってしまうのも彼を困らせるだけのような気がして、ただ喉の奥で小さく笑うにとどめる。
「大丈夫。そばにいるからね」
とびきり甘やかしてみたくなってそう言ってみると、ややあって、彼は遠慮がちにルエリシアの背に両腕を回した。
一般市民向けの通信の復旧はまだ見通しが立っていない。おそらく検討すらされていない。
技術的にどうというよりも、現在はこの都庁から手の届く範囲で少しずつ復興を進めているだけなのだから、SKYのように勝手に外で暮らせるようなごく一部の人間以外には需要もないのだろう。ムラクモでなくなったリユとは容易には連絡を取ることができなくなってしまったが、当の彼女は、余計なものに縛られなくていいかも、と通信端末を持たない生活をむしろ楽しんでいるらしかった。
「うーん……」
ルエリシアは洗濯の終わったタオルを抱えて廊下を歩きながら、その状況に頭を悩ませていた。
リユを呼び出すまでいかずとも、単なる近況報告としてジムノが風邪を引いたことを伝えられればとも思うのだが、わざわざ渋谷まで伝えに行くのはおそらく大袈裟なのだろう。ルエリシアとしては心配で気が気ではないのだが、彼本人を含む皆から「ただの風邪」と言われてしまった。
「あら? ルエちゃんじゃない」
ぼんやり悶々と考えていると唐突に背後から声を掛けられ、ルエリシアは反射的に振り向く。
「あっ、こんにちは、リユさ……リユさんっ!?」
「え? ええ。どうかしたの?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、振り向いた先に立っていたリユはそれにきょとんとした顔で立ち止まった。ポニーテールにまとめた長い銀髪が揺れる。
「え、えっと、ちょうどリユさんのことを考えていたところだったので、驚いてしまって……」
「あら。嬉しいことを言ってくれるわねえ」
Tシャツにジーンズというラフな格好に派手なジャケットを羽織った彼女は軽やかに笑って、それからまた歩き出すとルエリシアを追い越しざまにその頭をぽんぽんと撫でた。
「でも今はジムちゃんのことを考えてあげてちょうだい。風邪引いちゃったんでしょう?」
「えっ、あれっ、知って……!?」
ルエリシアの苦心をよそにさらりとした態度のリユは背を向けたままひらりと片手を上げて、
「さっき聞いたところよ。あたしはもう渋谷に戻るから、あの子にもよろしくね」
と、コツコツと響く足音に重ねた。
咄嗟に「はい」と小さく答えつつもそれ以上の言葉を上手く作れず、ルエリシアはもごもごとその後ろ姿を見送る。
「……あ、そうそう」
そんなルエリシアの内心を察してか否か、リユは苦笑した顔だけで振り向いた。
「あの子、風邪引くといつも喉を悪くするから。濃いめの生姜湯にはちみつ入れてあげると喜ぶわよ。インスタントなら、探せば都庁の中でも揃うんじゃないかしら」
「っ、あ、ありがとうございます……」
じゃあまたね、ともう一度手を振った彼女に向かってルエリシアはぺこりと頭を下げた。
タオルと水筒を抱えたルエリシアが病室のドアをそっと開けるとジムノは相変わらず苦しそうな様子で喉を押さえていて、しかし彼女と目が合うなり少しだけその表情を緩めた。
「お待たせ。新しいタオルと……これ」
タオルを手近な棚の上に積み、それからベッドサイドの椅子に腰かけ水筒の中身をマグカップへと注ぐ。とぽとぽと柔らかくも小気味良い音が響き、ふわりと白い湯気が立ちのぼった。
「……それは」
「生姜湯……って、あ! 大丈夫だよ、わたしじゃなくてエリシャが作ってくれたから!」
これまで縁のなかった生姜湯なるものをどうやって用意すればいいのか全く見当のつかなかったルエリシアがエリシャやサクラに相談すると、エリシャは酷く嫌そうにしつつもルエリシアをキッチンに近付けるよりはマシだと言って、まだ包帯を巻いた身体を引きずりつつもオーダー通りの濃い生姜湯を水筒いっぱいに作ってくれたのだった。インスタント粉末に規定より少なめのお湯を注いではちみつを溶かしただけにしか見えなかったので次は自分で作ると主張したのだが、エリシャが頷くことはなかった。
「……。いや、そういう心配ではなく」
不自然な間を空けつつもそう言ったジムノは差し出されたマグカップを受け取り、ゆっくりとひと口すすった。ほっとした様子の彼にルエリシアも肩の力を抜き、ふふ、と笑う。
「……さっき、リユさんに偶然会って……それが好きだって聞いたから」
「そうか、それで……。……気を遣わせてしまったな」
掠れた呟き。ルエリシアは慌ててぶんぶんと手を振った。
「そういうのじゃなくって! えっと……。喜んでほしかった、だけ」
自分でも嘘か本当か判然としない言葉は少し上ずってしまい、言葉尻も変にしぼんでしまい、しかしジムノはそれ以上何かを追求するようなこともなく、
「ありがとう」
と少しだけ口角を上げた。