褪せた錘

「おーい、ちょっとそこの」
 人通りが多いとはいえないムラクモ用居住区の廊下でふと聞こえた声に、ルエリシアとジムノは揃って振り向いた。
 その視線の先にはラフな格好で茶髪をバンダナにまとめた男が立っていて、
「ここにいるってことはお前らもムラクモだろ? ちょっと聞きたいことが……。……うん?」
 と、言葉を途中で止め、訝しげな表情を見せ、それをじわじわと驚愕の形に歪めていった。
 ルエリシアはその理由がわからずきょとんとしていたが、ふとジムノを見上げてみると、彼もまた、ほとんど無表情でありながらもほんのわずかに同じような色を滲ませている。
「……お、お前、まさかムラサメか……?」
「……。……ハジメ先輩?」
 ひどく気まずそうな空気のまま二人が黙り込んでしまうので、ルエリシアは仕方なくおずおずと「えっと……」と割り込むことを試みた。
「……知り合い? ですか?」
 ジムノに訊くべきかその男に訊くべきかも迷って曖昧な尋ね方をすると、ジムノの方は更に少しだけ黙ったのち、
「……高校の……剣道部の先輩だ」
 と、いつも通りにも聞こえる淡々とした声音で告げた。
「ハジメユウセイってんだ。……あー……久しぶり、だな……」
 ぎこちなく答えた男――ユウセイは、ジムノとは目を合わせにくいのか、ふらふらと視線を泳がせた。どう贔屓目に見ても、決して仲の良い同士の再会というわけではなさそうだ。否、ルエリシアはジムノがかつて誰からも避けられていたのだということを知っている。警戒すべき相手と言っても過言ではないように思えて、彼女は二人の間を遮るように進み出た。
「ムラクモ13班のルエリシアです。聞きたいこと、ですか?」
 にっこりとそう言ってみせた彼女に、ユウセイはややしどろもどろな態度で、
「13班……!? あ、いや、ええと。オレは何日か前にこの都庁に来たばっかで……ちょうど昨日、ムラクモにスカウトされたんだ。所属は……作業班だっけか? ひとまずはそこだって言われた。……それで、今日はムラクモの本部に来いって言われたんだが、場所が分からずだな……」
「じゃあわたしが案内します。……ジムノくん、一人で大丈夫? すぐ戻ってくるから」
 そもそも今はジムノのリハビリのために、松葉杖なしで都庁内を散歩していたところだった。預かっていた松葉杖をぐいと彼に差し出すと、彼はやや戸惑ったような様子を見せつつも「ああ」と頷いて受け取った。

「……あいつも13班なのか?」
 エレベーターを待つ間に問われたそれに、ルエリシアは「そうですよ」とだけ答える。
 ユウセイは「そうか……」と呟いて、何か言いたげに、しかし何も言わず、そわそわと背後を振り向いていた。
「どうかしましたか?」
 ルエリシアはそう尋ねつつも、到着したエレベーターにさっと乗り込む。ユウセイは「いや」と小さく呟いて彼女に続いた。
「……あー……あの怪我って、ウワサの……すげえドラゴンと戦って……ってことか?」
「はい」
「そうか……。そう、そうだよな。アイツ、強かったもんな……」
「……」
 かつて平和だった世界で、ジムノが強すぎた故に他人に疎まれていたことを知っている。ドラゴンの訪れた世界で、無力感に苛まれていたことも知っている。だから、何か悩んでいる様子ながらもさらりと発されたその言葉に、ルエリシアは何も答えられず一瞬だけ唇を噛み、「この階ですよ」とエレベーターを降りた。ムラクモの本部である部屋の前で足を止め、
「ここです。じゃあわたしはこれで」
 と立ち去ろうとすると、ユウセイは慌てた様子で声を上げた。
「ま、待ってくれ!……あの……アイツに、一度話したいって伝えておいてくんねえか?」

 数日後。
 ユウセイと彼の申し出を了承したジムノとがエントランスの隅のベンチで話している様子を、松葉杖を抱えたルエリシアは離れたベンチから遠目に見守っていた。
 何を話しているかは聞こえない。同席してもいいと言われたのだが遠慮した。
 和やかというには程遠いが、剣呑な雰囲気というほどでもなさそうで、いつもの無表情で言葉少ないジムノに対してユウセイがずっと気まずそうな顔で何やら言い募っている、という状況がかれこれ十分ほど続いている。
 ジムノからは、ユウセイは二つ上の先輩なのだと聞いた。剣道部の部長で、ジムノの入学からユウセイの引退までのほんの数ヶ月顔を合わせただけだと。ずっと校内でも校外の大会でも圧倒的な強さを誇っていた彼をいともあっさりと下したジムノに対する当たりが強かったのだということも、ジムノにしては妙に婉曲的な表現で、聞いた。学校に通ったことのないルエリシアにはその説明でニュアンスを掴むことができている自信はなかったが、今まで聞いた話を総合してみても、ユウセイの態度が他の部員や部外の生徒にも波及してジムノの立場をより悪化させていったとみるのが妥当であろう。
 とはいえジムノ本人はユウセイを特別敵視しているわけでもなさそうで、実際こうして時間を割くことを許容する程度ではあるらしい。だが、興味のない人間の顔も名前も覚えない彼がすぐユウセイを認識したのだから、多少は意識にあったはずで――
「ルエリシア」
 いつの間にか下を向いてぼんやりと考え込んでいてしまったことをようやく自覚して、彼女はぱっと顔を上げる。まだぎこちない歩き方のジムノがすぐ目の前で足を止めた。
「すまない、待たせたな」
「ううん、そんなことないよ」
 彼は表情を変えずに「じゃあ医務区に戻ろう」といつも通りの様子で言うので、ルエリシアも頷いて立ち上がる。既にユウセイが彼女の視界から姿を消していることを確認してから、
「……イヤなこととか、言われなかった?」
 と訊いてみると、ジムノはほんの少しだけ表情を崩した。苦笑したつもりらしい。
「心配させてしまったな。……当時のことを謝られた。時間が経ってから後悔していたんだと」
「……。許したの?」
 そんなことを訊いてどうするのだろう、と自分で思いつつもそう口にしてみると、彼は無表情に戻りしばらく沈黙したのち、
「許すも許さないもない。どうでもいいからな」
 とだけ答えた。
 彼が言うからにはただ言葉通りの意味なのだろうが、冷たく響くそれが自分で気になったのか、少しだけきまり悪そうに付け足す。
「……今はもう、過去のことは、いいんだ」
 赤い顔で視線を外しながら右手を差し出してくるので、ルエリシアはくすくすと小さく笑った。
 それを許したというのではなかろうか、と思いつつも、わざわざ指摘はしないでおく。
「まだ手をつないで歩くのは危ないんじゃないかなあ」
 そう言いながらも松葉杖を右腕に抱えて左手で差し出された手を取ると、彼は意識して作ったような真顔に照れを隠した。
「いいんだ」